2017年2月21日火曜日

哲学 - 生と死、それから宇宙間航行についての考察、またはその世界観




死んだら、僕は僕が創り出した鏡の世界へと身体(意識)を転がり入れるのだろう。
ということは、ミクロコスモス・マクロコスモス・ループの法則性に従い、
この世界がすでに僕の世界であり、楽園であるという解釈に至らないのだろうか。

この世界に生を受けた。いま、絶え間なく学習している。
この宇宙、それから連結した宇宙を作り変えている。
ぼくは各ホログラムに自由意志を認め、自我と個性を認め始め、
僕は受け入れずとも各々助け合って助長するように設定しておいた。

つまりこの世界では人間一人一人が神であらせられる。
僕の解釈による”死ぬ”とは、あなたから見た僕の世界線の話。
というコトであって、また別の宇宙では僕は生きているのであり、
多世界解釈における死とは数多くの無限の世界の中の1人が死ぬようなものであり、
つまり人間の体60兆個の細胞の1つが死ぬようなもので、
全体としての僕は生き続けている。

マイクロチューブルを用いれば、
その死ぬ運命・宿命にある世界線(1つの細胞膜)のなかに
意識を置かなければいい話であるので、
自由に細胞間(小宇宙・並行宇宙)を移動してよいという解釈にもなり得る。

ここで重要なのは、なにも1つの細胞(1つの宇宙)に固執する必要性がないということ。

では本体である神人アダムカドモンが死んでしまった場合どうすればよいのだろうか?
その1つ1つの細胞はまたべつの生物へと取り込まれる。
腐敗すれば腐敗菌がその細胞を壊し取り込む。
つまりワームホールのような理論と何ら変わりがないことに気づくのだ。



”DNA”



染色体ひとつひとつが我々なのであり、DNAのコードひとつひとつが私達なのだ。