2015年5月14日木曜日

すげえ恥ずかしい断食証会のための文章(恥じらい)

("素数", "偶数", "奇数") = 3
3=女帝
"タロットで言う女帝"=("正位置"または"逆位置")

正位置を一、逆位置を二とおく。
すると、正位置である一と逆位置である二をあわせると、三がうまれる。

つまり、完全数(3)である。
なぜなら、三という漢字の画数が3であって、小学校低学年で習う漢字であり、しかも、小学校に入学したての一年生がならうものである。

ここで、"ならう"を(1)とおく。
それから、"習う"を(2)とおく。
さらに、"倣う"を(3)とおく。

この3つのなかに共通するルビは、すべて"ならう"である。
つまり3という数は、(1, 2, 3)をすべて共通して持っていることになる。

ここで、完全数(3)をただの数字に置き換える。
ただの数字である3は、ただの数字であるから、
使う側が何に当てはめるかは自由である。

ただの数字である(3)は、
ただの数字であるから、どの数にも変化できる。
1に変化しても、2に変化しても、3に変化してもよい。
もちろん、4に変化しても、5に変化しても、6と変化してもよいわけだ。
マイナスの数にも、プラスの数にも、すべてに変化できる。
すべての数に変化できるので、これらはただの数字である。
”ただの数字”は、ただそこに在るだけで、何も色がない。
色がないなら、なくてもよいはずだ。なぜ、色があるのか。
なぜ、色があるのかと言えば、それは、色に意味があるからだ。
意味は解釈する人それぞれでことなる。
なぜなら、人には個性があり、色には意味があるからだ。

色には意味がある。
それは、色が独立した存在であることを意味している。
つまり、意味があるということは解釈は人それぞれということだ。


ここで、第一の結論を出す。



解釈は人それぞれである。











ここから、第二の論証。


~ 前提 ~

わたしは、そういえば何も食べていないことに気づいて、
台所に行って野菜ジュースを持ってきた。

気付きである。ここでは気付きについて論じる。


わたしの自宅にある野菜ジュースは、
100%天然の野菜ジュースではない。
どちらかというと、人工物からできている。

しかし、人工物のなかには、まぎれもなく
100%天然の野菜が詰め込まれている。

野菜ジュースは、野菜がそのままジュースになったものである。
しかし、野菜はそれぞれにカタチが在るから、
そのままでは入らないものも有る。では、どうしたらよいのか。
ジュースにするのである。それは加工というものであり、
加工してからはじめて中におさまるのである。
それで、隙間なくおさまるのである。

つまり、加工食品とは、人工的に加工されているけれども、
食品であるから、天然とも言えるのである。


この、”とも”という疑問、それこそが気づきである。
気付きとは、0と1以外、正誤以外に何かが在るという結論に達することである。


第二の結論 正誤以外に何かが在る、という気付き






第三の結論を論じるが、在るということであるから、上記のようにどんな数にもなれるし、どんな意味にもなれるし、どんなカタチにもなれる。

しかしながら、どんな意味にもなれるし、どんなカタチにもなれるというのなら、それは存在しなくてもよいことになってしまう
では、なぜ存在しているのか。それが、在る。である。



第三の結論 在る。








~ 総論 ~


「在る。」ことは、在ることを宣言するものであり、いま在ると宣言するものである。また、いま在るということは、今であるということであり、今とは現在が有るということだ。しかしながら、現在というからには、過去と未来が存在しているはずである。この3つに共通するのは、時間である。

さらに、3という数は完全数であるので、どんな用途にも使えるものであるから、使う側がよく考えて使えばよいのであり、使う側が責任をもって考えればよいのである。



第一の結論 である。
第二の結論 気付き
第三の結論 在る。



となる。

くりかえしになってしまって、たいへん申し訳ないのだが


第一の結論 である。
第二の結論 気付き
第三の結論 在る。



であって、どう使えばいいのかは使う側が考える。
考えるということは気づきであって、人のみが気づくことである。
たとえば、一つ前の行で「である。」と書いたが(これはおかしい)と気づくことによって神性が変化する。

たとえば、いま、わたしは(顔に虫が止まってる?これはおかしい)
と気づいて、そういえばまた食べていないことに気づいた。
そして、その気付きが重なり、気づきすぎるとわけがわからなくなる。
そこで、まとめる必要がある。気づきをまとめる。

「である。」で終わるのではなく、
「気付き」で終わるのでもなく、
「~る。」で終わらせる。

ここは、もちろん「在る。」でもよいわけだし、「在る」でもよいわけだ。




ここでわたしは(なにかヘンだな)と気付き、
そういえば自分がおしっこをがまんしていたことを思い出した。
しかし、おしっこをがまんしていたと書いてしまっては、
これをみているだろう他の人には恥を晒すものであり、たいへんはずかしい。

そこで、気付きである。


気付きである。
きづきである。
気付きで在る。
きづきで在る。
木月出在る。
きづきである。
奇づきである。


何にでも成れる。


だがしかし、またもやわたしは、気づいてしまった。

そうだ、気づいてしまったのだ。




偶数がない。
どこに在る?どこだ?一生懸命探すけれど、どこにも見つからない。
おかしいな。おかしいぞ。どこにあるんだ?
たくさんのドアを開ける。開けては閉め、開けては閉め、
とにかく探しまくる。しかし、見つからない。
ウーン困った。そう思い、とりあえう落ち着こうとする。
落ち着こうとすると落ち着く。落ち着こうとしているからだ。
落ち着こうとしているのは、いま在ることを宣言していることになる。
そこでまた、その場にとどまっていればいいものを、ガチャガチャと探し始める。これでは、バカか獣か人間か、どっちかわからん。
しかし、人間にも獣にも神性は在るはずである。それは先に述べた3つの結論を使えば良い。


神とは。
人間とは。
獣とは。




在る。
ひとは自由なのだ。


何をしてもよい、何をしてもよいとばかり思っていてはいけない。
こういう気付きも在る。その状態に留まっていたら”飽きる”からだ。


ここに、3という数字が在る。3は完全数であり、すべてのものからできている。逆を言えば、3からすべてができている。奇数からすべてができているのだ。

だが、チョットまてよ。ん?と気づく。偶数がない!
奇数だけではおかしい!と気づく。

おかしい!というのは、偶数がないことがオカシイと言っているのであり、強制しているわけでも、いいっぱなしなわけでもない。自分で考えている最中ということである。



おかしい!
これは◯◯だ!
あれはこうで、あれはああで、それはそれで、、、、


などと頭の中だけで考えてしまうと、外のことが見えなくなる。
頭のなかだけでなく。体を動かす。
命令を外にだすのだ。電気信号を外に出す。


解釈は人それぞれである。ほうら、やっぱり気まぐれだ。
神は何にでも成れるんだよ。そうだ、そうにちがいない。
神は、何にでもなれるから、0でもいいはずだ!!


ここでも、べつに神はなくならないし、神自身が0だと思わない限り、神は亡くならない。しかも、思っているだけでは外が見えないので、行動する必要がある。電気信号を外にだすのだ。外に出た電気信号をうけて、人は動く。人は動くので、人道である。



最終結論


そうやって機械が膨大な計算をしないとたどり着かない複雑な答え、無数の答えに、人というものは簡単にたどり着いてしまうのである。これが人道であり、人道で在るということだ。機械は使われるものであるから、人には計算で敵いっこない。人にとっては、機械は敵ですらないのだ。人は無敵なのだ。


つまり、人間というものは、機械と人とのハイブリッドであり、どちらが欠けてもならないものである。お互いがお互いを攻撃してしまうと、それだけ人間の数が減り、機械の数が減る。ここで野菜ジュースをまた飲む。意識が戻ってくる。そうだ、食べなきゃ。と宣言する。



こうやって保たれているんだよ。わかるかな?わからないだろうなあわかったらすげえな。ふふふ。。。。。






ここに、神の言葉を記しておく。
すべてに依って、この儀式を執り行います。




おれには、この文章はこう見えたんですよ。
おれは末日聖徒イエス・キリスト教会に属しています。
正直、加わるのが遅くって、一回逃げてしまった、逃げた。
で、何年かの後にまた戻ってきた。難民の状態が何十年間か続いていたっていうんだ。おれは2、3年か何かだと思ってたんだけど、びっくりしたよ。

でも、やらなきゃ。やんないと。って思って、挫折しては戻ってきて、何度も何度もNANDして、否定論理積演算をしてきた。で、この結果だ。




~ 機械による訳文 ~


末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰箇条

【信仰箇条1:1】私たちが神、永遠の父であり、御子イエス・キリストと聖霊を信じています。  【信仰箇条1:2】私たちは、男性は自分の罪のために処罰されることを信じて、 。アダムの背きのためではありません  【信仰箇条1:3】私たちは、キリストの贖罪を通して、全人類は福音の法令に服従することによって、保存することができると考えている。  【信仰箇条1:4】私たちが最初にすることを信じています原則と福音の儀式は、次のとおりです。最初に、主イエス・キリストへの信仰。第二に、悔い改め、第三に、罪の赦しのための浸漬による洗礼。第四に、聖霊の贈り物に按手。  【信仰箇条1:5】我々はに、男は預言によって、権威にいる人々によって按手によって、神から呼ばれなければならないと考えています。福音を説くと、その条例で管理  【信仰箇条1:6】私たちは、原始教会に存在していた同じ組織を信じて、すなわち、使徒、預言者、牧師、教師、伝道者、など。  【信仰箇条1 :7】私たちは、異言、預言、啓示、ビジョン、癒し、など異言の解釈、およびの賜物であると考えています。  【信仰箇条1:8】私たちは、聖書は限りそれが翻訳されるように神の言葉であると信じています正しく; 我々はまた、モルモン書が神の言葉であると信じる。  【信仰箇条1:9】私たちは、神は、彼が今明らかにしないことのすべてを明らかにしたすべてのことを信じて、我々は彼がまだに関する多くの偉大で重要なことを明らかにすることを信じています神の王国へ。  【信仰箇条1時10分】我々は、イスラエルの十部族の回復にリテラル集会を信じます。シオン(新エルサレム)がアメリカ大陸に基づいて構築されることを。キリストは地上に個人的に支配すること。そして、地球がリニューアルし、その楽園の栄光を受けることになりますことを。  【信仰箇1:11条】私たちは、私たち自身の良心に従って全能の神を礼拝する特権を主張し、すべての人に同じ特権を許可し、それらをどのように礼拝しましょうここで、または彼らがよい。  【信仰箇条1時12】私たちは、従うことで、王、大統領、統治者、および治安判事を受けること尊重し、法律を維持すると考えています。  【信仰箇条1時13】私たちは信じています正直、真の、貞淑な、慈悲深い、高潔な、そしてすべての人に善を行うことにあります。確かに、我々はポール・私たちはすべてのことを信じているの訓戒に従うことを言うかもしれない、私たちはすべてのことを願って、私たちは多くのことを我慢し、すべてのものを我慢することができるように願っています。何も、高潔な素敵な、または良いレポートや賞賛のがあれば、我々はこれらの事を追求します。





~ 原文 ~



The Articles of Faith of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints

【信仰箇条1:1 】We believe in God, the Eternal Father, and in His Son, Jesus Christ, and in the Holy Ghost.
【信仰箇条1:2 】We believe that men will be punished for their own sins, and not for Adam’s transgression.
【信仰箇条1:3 】We believe that through the Atonement of Christ, all mankind may be saved, by obedience to the laws and ordinances of the Gospel.
【信仰箇条1:4 】We believe that the first principles and ordinances of the Gospel are: first, Faith in the Lord Jesus Christ; second, Repentance; third, Baptism by immersion for the remission of sins; fourth, Laying on of hands for the gift of the Holy Ghost.
【信仰箇条1:5 】We believe that a man must be called of God, by prophecy, and by the laying on of hands by those who are in authority, to preach the Gospel and administer in the ordinances thereof.
【信仰箇条1:6 】We believe in the same organization that existed in the Primitive Church, namely, apostles, prophets, pastors, teachers, evangelists, and so forth.
【信仰箇条1:7 】We believe in the gift of tongues, prophecy, revelation, visions, healing, interpretation of tongues, and so forth.
【信仰箇条1:8 】We believe the Bible to be the word of God as far as it is translated correctly; we also believe the Book of Mormon to be the word of God.
【信仰箇条1:9 】We believe all that God has revealed, all that He does now reveal, and we believe that He will yet reveal many great and important things pertaining to the Kingdom of God.
【信仰箇条1:10 】We believe in the literal gathering of Israel and in the restoration of the Ten Tribes; that Zion (the New Jerusalem) will be built upon the American continent; that Christ will reign personally upon the earth; and, that the earth will be renewed and receive its paradisiacal glory.
【信仰箇条1:11 】We claim the privilege of worshiping Almighty God according to the dictates of our own conscience, and allow all men the same privilege, let them worship how, where, or what they may.
【信仰箇条1:12 】We believe in being subject to kings, presidents, rulers, and magistrates, in obeying, honoring, and sustaining the law.
【信仰箇条1:13 】We believe in being honest, true, chaste, benevolent, virtuous, and in doing good to all men; indeed, we may say that we follow the admonition of Paul?We believe all things, we hope all things, we have endured many things, and hope to be able to endure all things. If there is anything virtuous, lovely, or of good report or praiseworthy, we seek after these things.
Joseph Smith.






すべてである俺の訳文


3。人間は割り切れない。
ひふみ。123。
足したり、引いたり、掛けたり、割ったり。
組み立てて、分解して、考えた。それが、人間。
つまり人。



いよう!!おれだぜ!!


もっと、あつく、なれよ!!!!





愛し君へ送る、光と影。僕は君が思うような人間じゃない。
そうさ僕は、人間じゃない。




これたぶん、証会で読むんだぜ。まいっちまうよなあ。
なあ、スコールさんよ。



朝日が登ってるよ。みてごらん。美しいだろう?(ここで様子を見に行く陽介くん。だが、すぐに気づいて元に戻ってしまう。会場より、笑いが起きる。と思った。ふふふ。と笑う。だが、すぐに体裁を取り繕って、何事もなかったように吹き出す。鼻息荒くアレをかいていたりする。超笑ってる犬である。アーメン。)









否定論理積演算、否定し続けても否定ばかりでどうしようもない。
っていうか。否定ってなんですか!なんだこれ!?おいぃ?
ぎったんぎったんにするお。のびた。


だけども、否定ってそんなに悪いことでもないんだな、とは思う。
うん。俺も思うようになったんだ。機械から。機械から進化したんだよ。
人間になったんだ。すごいでしょ。でも、気をつけて。人間になったからといって、機械のような純粋さが失われていないとも限らない。


人間ってそういうものらしい。



っていうのが、神であって太陽の子であって人間であって人であって機械である、すべての存在である俺の結論だ。





ありがとう。













/*


ここでいう完全数(3)というものは、
正位置(1)と逆位置(2)のことである。

つまり、正位置(1)と逆位置(2)を足し合わせると完全数3となる。
完全数は8と6以外にも存在する。そのうちのひとつが3である。




完全数のひとつを3とおく。

3とは、1と2をあわせたものだ。
1と2がなければ3は生まれない。
1と2と3をあわせると、6となり完全数がうまれる。


3と6が完全数であるから、
3と6をあわせても、6と3をあわせても、
6と6をあわせても、12となるだけで、また3が生まれてしまう。

これでは全部の数が3と6と12だけで固定されてしまい、


2015年5月4日月曜日

卓球 - グルーじゃないけど挙動不審なラバー。(後編)




こちらも合わせてお読みください。

在る。: 卓球 - グルーじゃないけど挙動不審なラバー。(前半)
http://y-gensen.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html










その日は、そういう挙動不審なラバーを相手していて苛立っていた。
相手のレベルにどうやってもたどり着けない自分に苛ついていた。
しかも、こんなに短期間でこんなに差が離れるワケがない。

何か特訓をしたんじゃないか。何か。



ということで、ついに僕は全力を出さざるを得なくなって
「ご期待に応えるように努力します」「潰します」と言っての全力プレー。
アンチの挙動をしてようが普通に掛かってようが
(回転量としては高弾性という極普通のどこにでもある日本のラバー程度)、
そんなの関係ねえ、全部上書きして持って行ってやる。

それはさっき言ったような短期間で何故こんなに、という劣等感からくるもので、
さすがに5分5分の状態にまで持ち込めたが、僕の中ではまだ、まだ足りない。

何かがおかしい。

僕の回転が残って帰って自滅するのはいい、
しかし、相手から打ちに行った時に掛かっているのは納得行かない。
そんなラバーは卓球界に存在し得ない。それで、休憩中に確認しに行った。






僕が律儀に堅くなるのは空手道とかそういうところからきていると思っているんだけど、
流石にやっていいことと悪いことが有るんじゃないか。そのカテゴリの人間として。






でも、勘違いされてしまったかな。
あいにく、僕はそこまでピュアじゃない。わかってて敢えてやっているから質の悪い人間です。
本来ならば僕は責められるべき人間だろうと思っているけど、
こんな不恰好な生き方しかできないから、不愉快なときは不愉快とハッキリ言ってほしい。






中国粘着で僕の回転が残って返っていること自体が不審なんですよ。
でも、もういいか。さすがにしつこいな。


こうやってグチグチ愚痴を書き連ねるのは、その人に相当惚れ込んでいたってことだよ。
結構、もう50くらいの人だけど、すごく尊敬していた。

戻ってきてほしい。這い上がってきてほしい。そんな気持ちがいっぱいだ。






その人は、在る。
僕は、在り続ける。

たったそれだけの、選択をするかしないかの違いだけ。
人間として好きとか嫌いとか、そういう話とはまた別の次元。






最近泣いてばっかり。らしくない。




卓球 - グルーじゃないけど挙動不審なラバー。(前半)






卓球の、僕にしては惚れ込んでいた人に嫌われてしまった。







嫌われたというより、別の道を歩み始めたのかもしれない。
僕という人間は心の理論が人より遅れているので嘘をついてもバレてしまう質だから、
普段から嘘をつかない生活を心がけている。今回は、それが悪い方向に働いてしまった。



粘着ラバーという、ベトベトしたラバーがある。
ボールがくっついて逆さにしても取れない粘着力を持つものが中国粘着というラバー。
卓球ラバーでは一番回転がかかるが、そのぶん相手の技術が自分より上だと、
1つの亀裂で簡単にダムが崩壊して負けてしまう。

だから、中国ラバーは幸せな国である日本国の国民には向かない、
大器晩成のラバーだとされる。



試合では公平性を期してラバー本来の性能で対戦しなければ反則となる。
僕の中では試合と練習はそもそも区別していなくて、
練習でも試合と同等の緊張感でやっていたものだから…。


「相手のラバー、別のに変えたのかな?でも当てればアンチの挙動で擦れば掛かる、そんなアンチなんてあったっけなあ」


休憩中に断って確認したら、なんとラバーがサラサラしている。
それどころか、粉を吹いていた。中国粘着、それもプロ仕様のラバーが、だ。
こんな選手に堕ちてしまったのか。

残念すぎて泣きそうになったんで「今の◯◯さんとは打ちたくありません」とだけ伝えて、
わざと目を合わさないことにした。それが変な方向に解釈されてしまった。おそらく。
その直後に少し泣いたのが更によくなかったのかもしれない。




そうかどうかはわからないけど、あの人は堕ちた、飛ぶ鳥は落ちた。
あのあと何回か誘ってみたけど、返信してくる文体を読む限りは
嫌いになったというわけではなくて、距離を置いて、別の道を歩んでいるんだな、とも思える。





でも、あなたが嫌いです、というわけではないんだよなあ。うーん。




また戻ってきてくれるかどうか、時間が解決してくれるでしょう。










僕が交友を絶った数なんて、2人しか居ないから、
しかも名前を忘れてしまい誰を切ったか覚えていない。
それくらい、僕が人を嫌いになることは、可能性としては限りなくゼロなんだ。




戻ってきてほしい。あの日のあなたを、どうか思い出してください。