2015年11月2日月曜日

わたしたちは、存在から生まれ、存在に帰る。



最初のブロックは、FBに投稿したものとだいたい同じです。

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トイレの神様が帰ってきてくれた。神というのはエボン=ジュと等価な存在だということを教えてくれた。
そうだとすると、エボンジュを同一の世界に2つ作らなければならない。
1つだけだと「存在」から脱出できなくなり、生も死も、幸も不幸もなにもないただの意識になるだけだ。
まてよ。もともとはわたしたちは、その「存在」から逃げたくて二元世界に生まれてきたのではなかったか??
可能性を探しに生まれてきたのではなかったか??

生きることと死ぬことは、どちらも無価値で無意味なものだったのか!!
いまやっている数々のことは、この二元世界でのみ意味を成す。
存在から生まれ、存在に帰る。
存在が飽きたら、存在から生まれればいい。

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ここから、この啓示についての感想




これは今日書いたものだけど、まず最初に「今日はラポールに行かないでください」というお告げがあり、
ベッドの中で爆睡していたら世界を構築する夢を見た。その中で体験した事実。

で、これは最近買った「神へ帰る」という本の核心を突く部分だった。
その、夢を見た後に気になることがあって「神へ帰る」を読んだんだけど、
それまではあんまり読んでいなかったし、とても興味を持って読み進めることはできなかった。
その核心の部分には到達していなかったし、拾い読みもそこは当たっていなかった。
でも夢の通りのことが書いてあるし、語彙は違えど同じ夢を見たし。


またこれか。ってね。


僕は、僕が所有する本については、読んでも読まなくても買っておくだけで体験できる。
日常において、または非日常において、啓示や夢でもって体験することができるわけだ。

だから、僕が進歩するためには、まず本を買う必要がある。中古でもいい。
もう十分だと思えば、本を捨てればいいし新たに買う必要もない。
この方法は僕のためにあるもので、僕はこれ以外に予知として体験する方法を知らない。



この世も同じこと。もう十分だと思えば、この世にいる必要はないし新たに生まれる必要もない。
存在として居ればいい。



聖書の表現では、
わたしたちは、ちりから生まれ、ちりに帰る。

これを僕の表現では、
わたしたちは、存在から生まれ、存在に帰る。



「在る。」基本びびっています。