2016年5月18日水曜日

哲学 - 一元論者として、二元論者を斬る








この主張をしてる状態にある人は、いつまでも二元論のままなので、
本質である一元論に行き着く気配がない。


これは偏見だけどこういう人達に限って”神との対話”で言われていることを知らなかったりする。
すべてがつながっていて、どこにも矛盾はないのであり、
矛盾は自分が錯覚している二元論から来ているということを自覚する必要がある。

すべては愛だということもできる。
事実僕なんかも基本システムは善の宇宙であると主張しているからね。
一元論を現実逃避だと言って避難する人たちに耳の痛いことを言おうか。
二元論においてあなたがたが善側についたとすると、
悪の存在を認めたくない人になってしまうので、
実際に悪が存在している世の中から現実逃避している。

偽救世主が溢れ、偽預言者、魔術を行うもの、
手品師、奇術師がはびこる世の中になってしまった。
さてどうするか。このままそれらの人たちがいない世界、
いなくなった世界を想定して現実逃避を繰り返すか。

現実を直視しているのはいったいどちらなのだろうか。それともどちらもなのだろうか。
愛だ癒しだということを理解しない人たちは、
いつまでも二元性のある世界で一元性だけを信じていればいい。そういう未来がやってくる。


ここで大事なのは、すべては愛だということは集団と個人を切り分けて考える必要があるのだよ。
個人を集団と同じように扱ってはいけない。
愛だ癒しだという人たちは”あなた自身”のことを指して言っているのであり、
集団意識または組織内での影響は考慮していない。
いつの時代も話し手の意図は聞き手は全く無視するものなのだ。
それは聞き手と話し手双方の知識不足から来るものである。



善が悪に対して優っているとか、劣っているということはない。
人類皆平等という言葉をヒエラルキーとして評価してはいけない。
資本主義社会に染まっている人たちは、資本主義でしか評価軸を保てないのだ。

僕は地球人の精神性を高く保つための思想として、
プラウト主義と、共産主義、ホラクラシー社会を考えている。
この3つに共通するものがある。それはヒエラルキーとは無縁の社会であるということだ。



// ニール著「神との友情」より引用 ---------

神:あなた方は、「争いの無い世界で暮らしたい」と言う。
だから私は、「そういう世界を創るには、新しい福音を伝えることだ。
その福音とは、『私たちはすべて一体だ』と『私たちの道が優れているのではなく、
これも一つの道に過ぎない』だ。」と言うのだ。


// ------------------------------------





なぜ一元論が広まらないのか。

それはこの現実世界の苦難を作り出しているうちのひとりが
まぎれもなく自分であることを認めたくないだけのことだ。
そのほうが一元性を持つよりずっと都合がよく、気がラクなのであるから。

なんでも悪のせいにしてよくなる。自分は関係ないと言いはる。
自分は被害者で、ただの小民で、なんにも権限を持っていない善の存在だと言いはる。


最近ではコーリーグッドがようやくネガティブ存在として扱われているものを
「複雑な力関係の種族の中で生き延びたいだけ」だとして擁護するようになった。
これはコーリーが寝返ったのではない。



だがいいかね、自分の尻を自分で拭けないうちは、
光を広めようとか、悪を潰そうとか、主張してはいけないのだよ。
もう善悪の分離をこれ以上体験したくないのだろう?



僕が一番大切にしているのは、新しく入ってきた初心者だ。
今まで慢心しているのは、それぞれの癖が出る、
悪い言葉で言えば一元論をなめてかかっているという気持ちなのだから。

ところが入ってきたばかりの人は本当に一元論を習おうと一生懸命に来るわけだ。

地球は二元論が中心だ。
善悪だけを見て、現実的じゃないなどと言う人がいるが、それは見当違いというものだよ。
二元性というのは、倒し合いではないのだから。
どういう攻勢に持っていったら相手が崩れるのか、
そのためには自分の考えをどう構築し、
どういう力の使い方をするかを学ぶための練習の場なのだから。

実際に相手に立ち向かうときに必ずこう考えなければならないと言っているわけではないことを、
まず知っておく必要がある。痛くなくても敵が崩れる。そこに精神性の本質があるのだ。
一元性の鍛錬はそこに至るための入門第一歩だと考えておいてほしい。



いつまでも敵対勢力を痛がらせて喜んでいるようでは、
永遠に精神性の高みに到達することはできない。