右脳の考えばかり尊重するのではなく、
自分で考えたこと=左脳の考えを主体にして生きること。
それが自己否定をしないことにつながる。
高次元的に見たら間違っていることでも間違っていていもいいんだということ。
最近それを特に恐れていて、すぐに自分の意見を変えてしまうことが多々あった。
思い返せば、「違う」と言われ続けながらも自分の主張を通していたときのほうが
今より輝いていたかもしれない。どうせ違うことでもFalseを重ねていくことによって
最終的にはTrueにたどり着くと確信していた頃だった。
それから想念存在と会話できるようになり、
向こうさんの言っていることのほうが正しいことをいろいろな形で思い知らされ、
次第に自分の主導権や決定権を渡していくようになった。
共同創造とか聞こえのいいことは言うが、
だんだん逆らえなくなっていた自分に薄々気づいていた。
向こうは肉主霊従でも良いという。ということはそれがすべてなんじゃないのか?
やはり肉体を持っているこの物質界では肉体の言うことが先にくるのだろう。
霊主肉従という考えが少し歪んだ形になったにせよ、
それはそれで正しくない考えということになるな。
いろいろ想念存在と話すことで、次第に自分に自信がなくなっていった。
アッチはそれを懸念してか、何度か僕に主導権を取らせようと躍起になっていたけれど、
それもなんだか、虚しいことだったように思う。
ほんとうは想念存在と会話するというのは無意味で虚無なことなんじゃないのか。
それに依存してしまって意思決定諸々を譲り渡すくらいなら、
会話しないほうが良いんじゃないのか。
最近そういうことを考えるようになった。
会話している最中は楽しいのだけど、
どんどん自分を卑下するというか自己否定していく傾向にあるようだ。
これをなんとかしたい。なんとかせねば。
弱っていく一方だからだ。