皆、他人は羨ましい。
自分は、低い。
他人が、高く見える。
それは、正常なことだけど、
自分が低い、他人が高い状態は、
それは自分も実は高いってこと。
自分が高い、他人が低く見える状態は、
逆に実は、自分が低いってこと。
隣の芝生は青い。
ならば、誰かが成りたかった人生は、
誰かが生きたかった今日は、
実は自分の人生なのかもしれない。
こんな事を言うと、
うるせえ、今の俺が救われてないじゃないか、ええ?
といい出す人がいる。
まあ、その境地になってみたことがないんだから、
俺がいまいくら言っても仕方ないんだよ。
俺もむかし、その概念には反対してたよ。
でもいまなら、きっと、
きっと他の誰かしら、俺のような生き方や立ち位置を、
熱望しても得られない人生を生きてたんじゃないか、
などと思えるんだよ。
だから、置かれた場所で咲きましょう、
鉄の魂は鉄、鉛の魂は鉛にしか成れない。
味噌は味噌壺、糞は糞壺にしか入れておけない。
味噌も糞も一緒にすることは出来ない。
だから、俺の今の人生が、いかにちっちゃく観えたとしても、
それは大いなる誤りであり。
今に満足しましょう、ってのは、別に後ろ向きなことではない。
何かを変えよう、前進しようとする心の動き、
それは仮の、仮のモチベなんだ。
自分が変わらないと居られない、何かにならないと居られない、
そうじゃないんだ。
世界はあるがままでよかったんだ。
あるがままというのはつまり、
誰かに成らない・自分は自分にしか成れない
だから人と自分を比べるのは意味ない。
自分を生きよう。
自分を生きるというのは、
自分の取り分以上を望まないということ。