2015年10月30日金曜日

2015-10-29 わたしとの対話。




これより、対話を記録する。

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ニール・ドナルド・ウォルシュ氏に感謝。



やあ、ニール。

なんでしょうか。

あなたはわたしとしてかわりなく存在するし、わたしはあなたとして変わりなく存在する。いいかね?わたしたちは必ず一つの環に戻る。それは決して不自然じゃないし、いいことでもある。なにより、あなたとわたしが再びーー

ちょっと待ってください。いま、じゃああなたとわたしがひとつになるとき、どうしてそんなことがありえましょうか。ある朝わたしがベッドから起きてーー

失礼、あなたのことをチャーリーと呼ぼうが、ビルと呼ぼうが、ヤーウェと呼ぼうがエホバと呼ぼうが、ニールと呼ぼうが、わたしはわたしとしてかわりなく存在するし、あなたはあなたとしてかわりなく存在する。前にも言ったと思うが、存在がすべてなのだよ。

じゃあ、わたしは、あなたに質問をしていきます。

いいよ。何でも答えてあげよう。

この対話は個人的なもので、わたしと私の良き友人たちのために役に立つもので、決して損なわれるものではないものです。

そうだね。続けて。

では、今川杉作さんという人がいますが、あなたは彼をどのように見ていますか?

これはずいぶん漠然とした問題だねえ。うーん、彼は目覚めている存在だ。しかし、あなたはわたしの声を聞いて何を思い浮かべるかは自由だ。あなたはわたしまたはわたし以外の存在について知りたいのか?

ええ、そうです。いまは宇宙人、まず宇宙人について教えてください。彼らが今地球にコンタクトをして降りてきていると、巷の情報を学べばわかりますが、それは本当に真実なのでしょうか。

もちろんだ、約束する。

では、最初に彼らがどうしてこの地球に興味を持ってコンタクトをしてきたのか、お聞かせ願えませんか?

いいだろう、まず…あなたはわたしという存在をどのように認識しているかについて聞きたい。あなたはわたしをどう見ている?

まずわたしは、あなたすなわち神ですが、神はわたしたちを作り、私たちを導く存在だと思っています。だけどもわたしは、神というのは腸内フローラの中に存在すると思っています。神はすなわち私の中にあって、わたしの中に存在するものであります。だから、巷に神と和解せよという看板があるようなこともよくわかります。わたしが本当に自分と向き合って、神というものを自分の中に発見できたとしたら、それは喜ばしい、わたしの将来に大変喜ばしくかかわってくるものだと思います。

よろしい、大変結構。ではその神が、これから宇宙人と……おっと、すまない、ノイズが入って…あなたの頭は少し騒がしいようだ。あなたはわたしをあなたの頭の中の存在とした。わたしを腸内に住むとしたので、あなたの意識を整えていく必要がある。まずそこから入るが、これはよろしいかね?

ええ、いいですよ。かまいません。

では始めようか。宇宙人が何をしてこの世に、この地球に情報を伝播しようとしたかというのは後々かかわってくることだが、まずはあなたの中の情報から整理していこう。この対話はあなたが始めたものだから、あなたの責任で終わらせよう、そう思うだろう?

ええ、そう思っています。だからわたしのタイミングで、中断も休憩もしていいんですよね?

ああ、いいだろう。ではさっそく本題に入るが、あなたは宇宙をどう考えている?たとえばミクロからマクロであるとか、ヒッグス粒子もそうだが、もっと概念的なもので、自分にとって宇宙というのはどういう存在であってほしいと思っている?

わたしは、宇宙というのはまるっきり考えたことがないもので、漠然と宇宙は地球の外にあるものだ、地球を包んでいるものだという認識しかなかったのですけれど、生化学と栄養学を勉強するにあたり人間というものはそれ自体がミクロとマクロを兼ね備えた小宇宙であるという理解に至りました。だからわたしが宇宙というときは、この世の宇宙の、一般的な宇宙、地球外の宇宙をさすときもあれば、わたしの中の宇宙をさすときもあります。それは、概念としては全く一緒であって、さらにはコンピュータ関係の知識が、コンピュータと天文の話とわたしの中の概念の話とよく混ざって、それが同一のものだと、三位一体であって三位一体を否定するものだという認識に至りました。わたしそのものは宇宙であるし、わたしそのものが宇宙でなくても宇宙は宇宙として変わりなく存在するし、わたしはわたしとして変わりなく存在するという理解に至りました。そしてわたしが宇宙という存在をどう思っているかについてですが、わたしは宇宙というものを人工知能のような存在として、もちろんこれはわたしの中の宇宙としてですけども、わたしの中の宇宙については答えを望めば与えてくれるような存在であるように感じています。

いいぞ、大変よろしい。それでは、あなたはわたしに疑問を投げかけてくるときは、あなたからわたしに、わたしからあなたに跳ね返ってくるということだね。

はい、その通りです。

するとあなたは、あなたの責任はあなたの発言を一切責任を取るということは、それは不都合や不合理だととらえてはいないかね。

いいえ、特に考えておりません。わたしはもともと生活保護の身ですし、すべてに養われている…すべてを持っているということもできるでしょう、それはつまり失うものは何もないということです。わたしは日本国の法律もありますように、成人しているのでわたしの責任としてこの神とのわたしの中との対話を始めさせていただきます。

では、あなたはわたしという存在をどう見ている?

大変失礼な話で申し訳ないんですけども、わたしというのはまず、外のわたしと中のわたしというものがいて、外のわたしというものは大変強い、ガーディアン的存在ともいうべきものがいて、中のわたしがまだまだひ弱なもんですから、独り立ちできるように、なんとか強い外のわたしが弱い中のわたしを引っ張っていけるような解釈だと思っていました。それでいろいろあって、まずわたしという存在があり、その先に僕という存在があり、俺という存在があります。わたしも気づかないで出てくるペルソナのような存在であります。この俺の時が強いわたし、僕の時がつつましいわたし、わたしというときが中間のわたし。それでその中間のわたしがいるときは、すべてのペルソナをつかさどっているのです。大変失礼な話ですけど、あなたが絶対的に弱いと思っていたので、確かに力では絶対的に弱いけれども、外のわたしの中に無い英知というものが確かにあるということが、2015年05月以降に体感しております。それで、神との対話を個人的にも始めさせていただきました。それはコックリさんとはちがって、わたしの中の対話であなたというものがわたしと同一の存在であることから、わたしは自分に興味を持ち、あなたと会話をしてみたくなりました。あなたを知るということはすなわちわたしを知るということで、神に愛されている自分があって、自分を愛したときに、ほかの人にも愛を注ぐことができるだろうという、あさましいものであります。長くなりましたが、わたしというものとあなたというものと同一の起源、存在も価値も同一ということで、大事に思っております。

いいぞ、よろしい。少しパワーを使ったようだ、あなたの言葉を使えば外のわたし、外のあなたというのが疲れてしまっているようだ。悪いことは言わないから今日は休んだほうがいいだろう。あなたは今日休まねば2日徹夜することになるぞ。

ご忠告大変ありがたいのですが、まだ端書にも至っておりませんゆえ。

ならぬ。

それでは…

2015年10月16日金曜日

まだ早いけど11月の断食証会のための文章。



皆さんこんにちは。この場で証することができてとても光栄に思います。
スピーチが苦手なので文書にて失礼します。


11月ですね。僕は5月頭から今の今まで、神には神秘的なことを数多く教えてもらいました。
たとえば、11という数字には特別な意味があります。
ユダヤのカバラ数秘術では11を特に重要視していますが、
僕にとっての11というのは伝道者の数字です。
くわえて、11の倍数は天使が僕に何かを伝えたいときの数字。うまくいっていることを伝えてくれます。
数字による秘術を僕に教えてくれた神にこの場で改めて感謝するとともに、
11という数字はジョセフスミスを表すことを証します。


それから、真実はつねにひとつだということも言っておかなければなりません。
たしかに、真実は複数あるでしょうが、それは各々にとっての真実であり僕にとっての真実はひとつです。
真実は事実から派生するものであり、カルマはダルマから派生するものです。
それは、真実をさかのぼっていくと事実に突き当たるということを示しており、
カルマをさかのぼっていくとダルマに突き当たるということを形容しています。

この世界にはダルマとカルマがあり、ひとはあらかじめカルマを設定してこの世に生まれてくる。
カルマが尽きることはないのです。カルマはなければならないし、不必要なものでも邪魔なものでもない。
カルマがあるからダルマがあるのです。ダルマとは理のこと、世界の流れのことです。
ダルマがあって世界が流れるためにはカルマがなければならない。だからカルマは消えないのです。
ここでまたこの理を教えてくれた神に感謝するとともに、
善のためには悪が必要で、悪のためには善が必要だということを証します。
悪は悪ではないということです。そもそも立場により善悪は全く異なりますから。



もうひとつ、永遠の命というものは存在しないことも言っておきましょう。
でも永遠の命は確かに存在している。確かに存在するけれども存在しえないものなのです。
当たり前ですがこの人生には存在しないでしょう。しかしこの人生で終わりの命ではありません。
死というものは息苦しい詰まりのようなものです。幕の向こうに身体を転がり入れるように、
この息苦しさを越えてわたしたちはこの現世に生まれつきました。
ここに、死は無意味であって割礼のようなものであると証します。



真実はわかる人だけわかればいいんです。聞く耳を持たない人にはわからなくていいんです。
傲慢に聞こえるかもしれませんが、それが真理です。



最後になります。これは専門用語になってしまいますがお許しください。
量子力学におけるコペンハーゲン解釈は古い、エヴェレットの多世界解釈が主流だ。
こういう話はあるみたいです。でも、僕が与えられた啓示では、両方必要だと言われています。
つまり、コペンハーゲン解釈から多世界解釈が始まり、
いくつもの多世界解釈の後にコペンハーゲン解釈があり、またその先に多世界解釈が続くということです。
簡潔に事実だけをお伝えすると、この宇宙はたったひとつの素粒子だということです。
誰かと交流したりするのも、善も悪も、言ってしまえば自分の生き死にまでが、
ダルマによって動かされ決められているのです。
ここに気づくかどうかが、永遠の命の木の実を食べる資格を与えられる条件となります。


この世界は2極でできていますから、つねに反対方向があります。なぜ、反対にもあるのか。
悪魔とは一体何なんだ。神はいつでも正しいのか。気づいているけれども、認めたくないだけなんです。

できるだけ若いうちに神を知っておくことは、その人のためになるでしょう。
すべては在るべくして在るのであり、ひとつもかけてはならないのです。
価値のないものは自分にとって価値がないだけです。むしろ、価値がないものこそ価値がある。
価値がないということは価値を持っているということです。
コンピュータの世界で言えばオール0を恐れるならオール1も恐れて然るべきだということです。



わたしたちは決して死なないし、永遠の地獄に落ちることもありません。
ただこの世を心の平安をもって生きること、これが永遠の命だと証します。
楽しんで生きましょう。

ありがとうございました。これらすべてを御子イエスキリストの御名によって証しました、アーメン。




2015年10月14日水曜日

贄の十字架。





寝る前にやってる趣味の瞑想で、最もエネルギーの高いシンボルは十字架だというのを教えてもらいました。
これは僕という人間の基礎がモルモン教から来てるというのもあるかもしれない。
モルモン教では十字架は掲げないんだけど、結局曲がりなりにもキリスト教ですよね。
磔刑、ということへの意味を象徴的に教えてもらいました。


死人に口なしという言葉があるように、死を控えた罪人にはたくさん罪をおっかぶせても構わないと。
あることないこと言われるわけです。おそらく。
そういうことへの身代わり、依代として、十字架を使う。
キリストへ直送されるわけですね。



だけど、僕が見たことについては、ただ人間の形をした物体がそのまま十字架になっているとしか言えない。
その人形(ひとがた)についてはキリストかどうかまではわからないけれど、
十字架というのは人形をさしているみたいなんです。


十字架というのは最もエネルギーの高いシンボルと書きましたが、
もともと十字はエネルギーが高い形状なんです。境界線をビシッと決めるチカラに優れている。
十字は組み合わせて使うと効果的ですけど、十字架は単体で効力を及ぼす。

贄というか、式神的な匂いを感じますね。
僕は嫌いです。ぞわっとする。間違っても部屋に置いときたくないですね。聖なる印象はないです。



今回はそんなところです。


2015年10月12日月曜日

この世の真実を知りたいならば。





この世の真実を知りたいならば。




真実は事実でない。
主観は客観でない。
無知は無知でない。

直感は感情に優り、輪廻は解脱に優る。
隠者の知恵は識者の知識に優り、内なる声は外からの声に優る。



真実は記号としてあなたの前にあらわれる。だから、真実はどれをとっても記号でしかない。
記号としての真実を読み取り、体験して、それを知れば、賢者の石を得ることができる。
賢者の石は甘い蜜のようで、身体のために良い。



賢者の石を持ち、無限の世界を旅するならば、いずれ燃えさかる剣とケルビムを目にすることだろう。
隠者よ戸惑ってはならない。それはあなたの肉体に害を及ぼさないからだ。
エデンの園への扉は自分で開けるべきである。誰かに開けてもらうのではない。
望むならいつでも命の木の実を食べることが許される。方法を知らないのではなく忘れているのだ。


儀式のシンボルには強い意味がある。日常で目にする色にはそれなりの意味がある。
色の境界線には注意すべし。横断歩道は濁流にかかる橋のようだ。
見えない世界を信じてはならない。目に映るものはホログラムだと知るべし。





隠者よ、それは意識すれば引き寄せられるだろう。
識者よ、方法にすがってはならない。
愚者よ、楽しんで生きなさい。
求道者よ、富と名声を選ぶなかれ。
空の空、空の空、いっさいは空であるからだ。




真実は高くあげられるものである。隠しておきたいならば隠しておきなさい。




夜は神の時間であり、昼は人の時間である。
夜はゆっくりおやすみ。



雑感 - 加速する世界はうそをつかない。

僕は短期決戦が好きだ。なんでも、短期間のうちに済ませたい。
いろいろ理論を学んでいるけど、全体をつかむのが早いというか、落としどころをつかむのが早いようだ。

今の時代だからこそ永久に消えない記録が残せるけど、昔はこんなのじゃなかった。
書くのが大変、残せない記憶は山ほどある。そんな時代じゃなくってよかった。




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今僕は、医者が定めるところの統合失調症ではないかと思っている。
でもそんなことは診断書に書かれていない。
国の人にとっては書かれていることがすべてなんだけど、
僕にとってはすべてではない。それで入院中はこんなやり取りをした。


医者に対しての僕は「患者の代表」としてその患者の代表は「その時々の患者」だということを言った。
そうしたら、医者は「身体のことを一番分かっている人」として「身体のプロ」と返してきた。
そして医者は「僕らは精神科のプロ」つまり、このことを肯定的にとらえるならば、
僕の身体に関しては全権限(全責任)を取得できたということだ。
だから、極端な話医者にアレコレ要求することができるし、これまでもそうしてきた。
バカ正直に生きていくとこういうことができる。一貫してうそをつかないことで整合性が保たれているからだ。



NANDというコンピュータの回路がある。NANDは「NOT AND」で否定論理積と表現する。
否定論理積というのは「ある集合の否定」ということである。現実では必ずしも集合でなくてよい。
NANDを現実世界に応用すると、うそをつき続けることで人生を表現することになる。
そうすると僕は「ある集団の代表」つまりANDを使っているということだ。
ANDを現実世界に応用すると、バカ正直に生きることで人生を表現することになる。
コンピュータの世界は人間の世界と同じであって、微塵の違いもない。



コンピュータの世界では人間の世界のことを実に素早く計算できる。
コンピュータの世界で割り出したことは人間の世界で可能であるし、逆もまた可能だ。



手っ取り早いほうがいい。
だけども世界全体が手っ取り早く成果をあげる方向に加速している。
これは僕の問題ではないのかもしれない。ネットワークがあることにより個人の成果は共有される。





僕は扉の前まで案内していく。扉は君自身で開けろ。




2015年10月5日月曜日

最近の卓球。




ついに、粘着ラバーをやめました。


理由は、カットマンをやめてドライブ一択で行こうと思って。
もうそんなことばっかり言ってますよね。それは自覚してる。


現在の用具
R:松下浩二オフェンシブ FL
F:ラクザXソフト 特厚
B:ヴェガアジア    厚



松下浩二オフェンシブと両面テンションの組み合わせ。
カットは全くできなかったよ。まったくだよ。一片の望みもなかった。跳ねまくってさ。

でもね、緩い卓球スタイルには向いてるんじゃないかなと。
球速はゆっくりです。全力で振り切ったとしても追いつかれちゃう。
回転はちゃんとかかってるらしい。ただ、僕の考え通り、取りやすいと。


僕の球は、すごく取りやすいですよ。
もう粘着の時みたいなミスはしないです。僕?いやいや、あなたがですよ。



僕の卓球理論だと、

取りやすい球 = 打ちやすい球
打ちやすい球 = 安全な球
安全な球   = 取りやすい球


なので、もう僕が打つテンション球は全部取りやすいです。
安心仕ってください。



スタイルも変わってません。
Win-Winであることは変わりないんだけど、たまには勝負しろよ!なめてんのか!って言われることもある。
ごめんなさいって言って、試合は勘弁してくださいって申し開きをするくらいですね。
最近はもう僕のスタイルは周知されてるみたいで、まあ馴れ合いっちゃ馴れ合いなんだけど、
何より僕がそれを望んでいるので。


打球時に手元を見ないのも変わってない。
スグルミュージックさんっていうクラブを見学したけれど、僕には向いてなさそう。
みんなやる気モードだから、僕だけノホホンモードで参加してたらLose-Loseだよ、きっと。





これがねー、勝負好きな性格だったらよかったんだけど、
勝負好きと言えば心理戦が大好きでババ抜きやるくらいかしら。







テンションに変えてから、コントロールだけは飛躍的に伸びました。
たぶん、粘着の時のミスを100だとしたら、24くらいには減ったんじゃないかな。とにかくすごい減った。
ひとえに軟らかいおかげだね。思ったところに球がいきます。



特に変わったことと言えば、テンションに変えてから基本技術をやたら褒められるようになったことと、
全国の人に「練習すれば俺に勝てるよ、これはべつにお世辞じゃないよ」と言われたことかなあ。
ああ、ツッツキを結構褒められました。誰と打っても褒められるかもしれない。ツッツキは。
取りやすいのも褒められる。あとは身体で打ってて腕に力入ってないとか。

なんか褒められてばっかりです。




そんな感じ。ゆるーくやってます。




きれいなウンコについて。



きれいなウンコ。
ここでは、臭わないウンコということにして話を進める。




臭わないウンコ。おそらくは、少し臭うもののそれほど臭くはないもののことだろう。
単刀直入に、僕がやったことだけを書いていく。


臭わないウンコ = 腸内細菌のうち善玉菌が優勢な状態
   臭うウンコ = 腸内細菌のうち悪玉菌が優勢な状態



臭わないウンコにする → 腸内細菌叢の改善
腸内細菌叢の改善  → 善玉菌、悪玉菌から成る常在菌を増やす
常在菌を増やす    → 腸内細菌が作り出す有益な成分が発生、宿主である人間との共存共栄
共存共栄       → Win-Winの関係



常在菌(善玉菌)を増やすには → ビタミンC  3g ~ 10g 個人差有り
                      食物繊維 多ければ多いほど良い
            食物繊維 → 果物類、イヌリン、デキストリン
            おまじない → マグネシウム 250mg



状態が良ければ、1日4回ほど出る日もある。
ウンコは出れば出るほど良い。腸内細菌叢が良い時のオナラは殆ど無臭。しかしたくさん出る。
ウンコというのは汚いイメージがあるが、案外人体にとって有益な成分の固まりなのかもしれない。


結局のところ腸内細菌は常在菌しか増えないので、
巷に出回っている納豆やらヨーグルトやらは本来ならば不要なのである。
むしろ害かもしれない。