2013年10月7日月曜日

【在る。】このブログについて。

世の中似たような人でできてるんだってさ。
引き寄せの法則ってやつはね、自分と似たパワーを持った人だけが惹かれあうんだって。




考えてみたらそうじゃんよ。
いろいろ話す前の人に共感して、幾年が経って自分の性癖やなにもかもをぶっちゃけちゃった時、
あんがいその人もぼくと遠からず近からずって感じの性癖だったりするしね。

あれは正直びびってしまったけど、引き寄せの法則っていうのを身にしみて感じられたことでもあるね。





やっぱり、重み付けってあると思うのよ。
引き寄せの法則でも、今自分が重きをおいている方向の人をいろいろ引き連れてきちゃう。

人でも、モノでも、カネでも。
そういう状況だって連れてきちゃう。
カネがないと思えば、カネがない状況だって連れてきちゃう。



引き寄せの法則って言葉ひとり歩きしている感があるけど、そこに加えるべき言葉としたら「重み付け」かな。
その人がいますごく必要としている事柄を引き寄せてしまう。それも、自然に。
宇宙はそれが本来の姿だからね。



だからぼくは引き寄せているわけで。
それはいいことかもしれないし、時に悪いことかもしれないし。


狭く深く付き合いたいと思っているからこそ、狭く深く付き合ってくれる友達に恵まれているんだし。




狭く深く付き合ってるとね、やっぱアレですよ。お互いの腹の中なんていちいち見なくてもわかるから。
えらい深い話ができますよ。それも、ごく自然に、当たり前に。


べつに友達を多く持つのが罪だと思ってるわけじゃなくって、むしろ卓球とかで繋がりたいのだけれど、
人生や哲学の話が通じる人っていうのは、限定されちゃうかな。
そもそもそういうのに興味がない人だったり、難しく考えたくない人だったり…するからさ。




ぼくに限らず人間っていうのは、この目的にはこの集まり、みたいな、友達の中でも区切りがあって、
その人達にはこういう顔、こういう話、というふうにうまく立ちまわってるんじゃないかと思う。

もちろんそれは自分のためでもあるし、相手のためでもあるし。と思っている。
すべての友達に同じ顔なんて無理だ、とぼくらは思っているところがある。



だから、それぞれの顔に合わせた友人というものを引き寄せるんじゃあないのだろうか。
卓友と、哲友と、パソ友と、レジャ友。
ぼくの数少ない友人の中でもこういう分類があって、
これ以外の話をしたら興味がなさそうだなという割と明確な線引きというのがある。


それぞれのジャンルの中で、それなりに深い付き合いをしているつもり。
相手方もそれはわかってくれているようで、ぼくが当日体調を壊した時などはむしろ心配してくれる。






ぼくもたぶん同じことをしてきた。だから、引き寄せの法則には合致していると思う。




それに、もっとマクロな目線で見れば、地球上のすべての人間は、
すべての人間と共通するものをすでに持っていて、それに惹かれている…ことになる。

そうなると、引き寄せの法則というのは、ニール著の「神との友情」でも語られていた通りの、
「すでに自分が持っているものを、ほしいと思うこと」なんじゃないか。




なかなか、普段生活してて仕事に忙殺されている毎日ではこういう考えに到達できないけど、
ちょっと考えれば、これくらいすぐわかっちゃうことなんだねぇ。





なので、これからもぼくはそういう同志を引き寄せるだろうし、
逆に、ネガティブな感情を持った時にネガティブをさらに引き寄せてしまうだろうし。




でも、悟りって、ただ解脱することなのか?
解脱って、そんな聖なることなのだろうか?
聖なることって、そんなに聖なることでなければダメなのだろうか?
誰の目から見ても、悟ってないといけないのだろうか?


違う!!!

違うと言った。




悟りとは、人間らしくなることだと思う。
自分を見据え、自分と付き合いを始められた時がスタートだ。
誰かに認められるために悟るというのは、悟っていない証拠だから。

誰の目から見ても悟っていると思われなければ悟っていられないのか?


悩み、葛藤、嫉妬、そういうの全部、悟ったから「こそ」湧いてくるものだし。
なんか違うこと言ってる?


ツイッター上でさわやかなことばかり言ってるスピ系の人たちも、
ツイッター以外での顔はそれは無様なもんだ。





故に、ぼくはぼくで在りたい。
誰かに認められるためでもなく、誰かに全力でわかってもらうためでもなく、
ただぼくがぼくとして素性を出していられる場所。



それが…「在る。」








ここに載せてる顔というのはまだまだ少ないけれど、
いつかぼくの内面のことも載せられたらいいなー。



ということでした。