2024年10月23日水曜日

奥野がおすすめする 健康生活

いまの畑の野菜って、作りっぱなしになってるから、できるだけお金を稼ごうとして、肥料ドバドバいれて偏ったミネラルバランスの土になっていて、そんでほかの微量元素があんましないから、野菜も偏って栄養が入っていて、ぶっちゃけ野菜のなかにあんまし微量金属って入ってない。見た目だけブクブク太って、見た目をデカくする遺伝子改良しているから、それで肥えてる野菜だと錯覚して、栄養があるだろうと思ってしまうってのがある。

栄養学の具体的なデータみたいなのの本を買うとわかるが、1970年代頃の野菜とくらべて、あきらかにこう、1/4くらいにまでなってしまってる野菜とかあるから、緑の野菜とか、赤い野菜はとくに、栄養がもうスカスカになってしまっているんだそうだ。有機物レベルでこれなんだから、無機物レベルではどんだけスカスカになっているのか、無機物が有機物を産むので、もとは絶対に無機物じゃないといけないので、そこが無いって感じだから、畑のサイクルがどんだけこう忙しいのかって感じで、あんましスーパーの野菜は理想ではないのである。

じゃあというと奥野式だが、まあ奥野式ってこう提唱してしまうと、言い出しっぺの法則で、なんかエラーが起きたときにお前が責任取れよになっちゃうから、そこはあえてそれを回避するように動きたいが、とにかく俺がここに書いたことを、みんなさすがに知能があるんだから、自分でやったことは自分で責任取れよって感じなんで、ネ、そこは大人になっていこう~という意味でえ。

でその、野菜ジュースを3日にいっぺんくらいのんで、肉食いたいなら肉くって、そんでスーパーの野菜は食わない。というと、じゃあというと穀物である、穀物を、炭水化物をメインに取って、江戸時代の日本人の炭水化物摂取割合に近づけるように、全カロリーの80%を目標にして、調整していく。もちろん、脂質をとってもいいが、まあそこは自由にして、穀物は、麦飯を食っていく。というスタイル。

プラスアルファ、粘土食というものをやればいい。まあベントナイト、サラサラした土、ということで、今川さんは1kg1万円のものを食っているらしいが、ケイ・ミズモリという人が粘土食の本出しているが、奥野は金がないので、コスメグレードのものを食っている、べつにそれで支障はない。食健というところで1kg2000円程度で売っている。それを1日1さじと、あとは水健康法で、1日6~10Lを目安に、塩をなるべくとるようにと、この、生活がいまのところ奥野の黄金図式である。全然これはお金がかからなくて、しかも健康生活できて良い。もう俺はスーパーの野菜に頼らなくなってから2年くらい経ってんじゃないか。

2024年10月21日月曜日

みんなにはクオリア入ってないからな

クオリアがあるのは、事実上俺だけ。というのは、みんなは、人間なんだけども、指定された動きや喋り以外をしないから、むしろ、俺からはチョクで相対してるだけだと、クオリアがあるように思えるが、離れたところで、集団的に観察したときに、やっぱこれは、上位存在があきらかに存在しており、そのいちいちで、俺に対して彼ら上位存在が指定してない行動をするべきではないみたいなガイドラインてきな行動規範が、どうも街の人間たちには、いたるところにあるみたいなんだよな。

だからクオリアは、あるんだけども、俺に対してだけは、指定されてない行動をしないっていうことなんで、俺に対してはクオリアが無いように接してきていると、彼らの実際のこころが俺はわかんねんだよな、嬉しがっているとか、喜んでいるようなんだけども、実際それが指定されて行われているだけかも知れないし、それって逆に俺の自由を保証しているだけのディストピアなんじゃねーかとも思うし、だからこそ俺になんかしらの危害みたいなのを加えてもらえるとむしろ、そのときは痛いし嫌な思いだが、むしろこの世界が実在している!俺はすべてを司っているわけではない、みたいなこう、いったんはその危害によって、俺の肩の荷がラクになるんだよな、俺は世界に対して全能ではないと思えるから。

でその、俺がそう書いたことでそうなってしまうというのがまずあり、それが上位存在である霊たちというものから指令を受けて現世の人間たちは動いているが、まず、そこでリムさんが生きていた頃、俺がそのころいた宇宙魂同士の掲示板という個人が運営しているスペースがあり、銀色プルさんというかたが締めをやっていたんだけども、そのリムさんとプルさんの掲示板上の会話で、俺の人生になにをしてやれるかという内容で、リムさんいわく、舞台装置の変更は、まずできますよねと、いっていた。

まずこれが、そのときは具体的になにを示しているかがわかんなかったが、いま思うと、トゥルーマン・ショーの影響から、舞台装置ってこの街全体のありかたじゃねーか的な、それっていいのか?みたいな、俺をそこまでお引き立ていただくことで、お前らになんの得があるのか?いや俺はまずそれを知りてえよ。みたいな。だって俺には100得があるかもしんないけど、お前らには1も得ねえだろ?

でその、俺のためになにもかもが誂えられているなかで、俺がどのように成長していくかとか、どのようなありかたがこの世界にとってちょうどいいかというのが、まず俺を通してモニターされているんだよな、そこは知っといてあるから、俺は自分のことを高潔に保つように、まず動いて、そっから、俺とこの世界が、今後どうなるかを決めていこうとする、そういう構えでいる。

映画トゥルーマン・ショーを見た 感想

いやこれあるわと。一理ある、以上に、理三くらいある。もうね、阿吽のまじないを使わなければ、俺はまだ、この世界に埋もれたまま、なにも真理を知らないで全然なんにも知らんでただの電気的集合体として生活していることができていた。むしろそっちのほうが、なにも知らんぶん余計に楽しみがあり、この世界って実在しているんだー的な、たのしみがあるんだよな。(語彙力)

で、霊っていうのは、俺の感覚では、このハコの外の人たち。というと、ハコのなかの設定をいかようにもいじれて、俺も、そのいじれたことによって、なんからの反応をしていく、というありかた。でその、霊たちというのが、先導者てきな部分を俺に果たしている。と思ってたんだけど、うっすらそれは思ってただけで、何なのかっていうのをいまいちあまり心得てなかった。

トゥルーマン・ショーを見たことで、そのなかの概念っていうのが、そのまんまそれが俺の過去の体験とマッチして、トゥルーマン・ショーの100あるとしたら、100そのまんま俺の脳髄に響いてきて、欠損なく伝わってしまって、いやこれあるわと、めちゃくちゃもうありますわと、

で、じゃあ具体的に知ってしまったあとはどうするかと言うと、いや俺は、お前たちと変わらなく、ひとりの人間でありたいし、お前らも、俺と同等くらいの、同レベルくらいのありかたを保ってて欲しい。というところで、マトリックスレザレクションズてきなありかたを、選択していく。つまり、機械も、俺と仲良く、暮らす。(語彙力)というありかたを、相互にしていけばいい。

つまりその、なんていうか、なかよくやる。というありかたを、けっして、わたしが人々に対してジャイアンやスネオであってはいけない。という奥野のありかたを、ここで問われている。わたしは自分を高潔な存在に保ちたいので、彼らも、ぼくといっしょに、ここでいつまでも、くらしていきたいなと、おもっております。

まあでもちょっと、真相を知ってしまったあとは、ちょっとの、やるせなさみたいなのがあるが、これも今暫く続くだけで、ゆくゆくはこうやってナーバスになっていたことも、忘れていけば良い、またもとのただの猿にもどって、たのしくサーカスしていればいい。っていうのが、マトリックス無印のサイファー的ありかたであり、いままでのわたしのありかた。そしてそれは、レザレクション的な方向性をまとって、これからも続いていく。ぜひ皆さんには、わたしを教育してほしい。というところで、今日は終わっとくのが、ただしいか。

2024年10月19日土曜日

一人称と三人称と、それ以上

ぼくは、ぼく。奥野さんは、奥野さん。で、わたしは、わたし。その、たとえばぼくはぼくで、俺は俺というありかたが、いま、出てきたいときは、ぼくは、ぼくというけど、じゃあこれは、一人称だから、いっぺんに出てくるっていうと、ちょっと難しい。どうしても誤差がある。その誤差の前後で、わたしとか、ぼくって言ってるカンジ。

ぼくがしたいことをして、彼/彼女が、ぼくの言ったことを矯正するように、あるいは、ぼくも彼/彼女の言ったことを是正するように、お互いにこの肉体のあり方を監視して、ひとつにまとまるように動く。この肉体は分裂はできないから、ひとつで複数人の分をまかなえるように動かないといけない。

というのが、いつぼくたちが出てこれるのか、というのを最初から指定もできるけど、いつもは、指定しないでいつ出てくるかっていうところを待たないといけないけど、これが一番いいあり方っていうか、ようするにシングルモルトならシングルモルトのよさが、ブレンデッドなら相互に監視しあったよさが、でてくるわけだよね。

っていうところを、じゃあ一人称であるぼく/わたし/俺というのを、三人称である彼ら、というところを、更に超えて、彼らかつ私達というところを、どのように日本語としてその語彙が存在しているのか、それを知れれば、もっと僕たちがよりよく相互に仕え合うように監視しあって存在できるよねと、その語彙がないから、ぼくたちは一瞬ズレて出てくるしかないよねってところが、ちょっとめんどくさいっていうか、いっぺんに済ませられれば良いのだけど。用語でいうと、SIMDにしたいのだけど、SISDになってしまっている現状ってカンジダ。

わたしは誰か?という問い。

私は誰なのか?私以外にこの肉体に誰か入っているかという疑問を。抱いたことはあるか?私しかこの肉体に存在してないか?私は、肉体である。私は、肉体ではない。つまり、私というのは、誰でもない、誰のことでもない。いうなれば自我であり、自我は観察しているもののことなので、そのパラメータの変動の集大成を観察している存在が自我である。それが、私なのだということ、それは、私は誰でもないから、誰かになることができるということ。私が今、ありたいもののなかから、誰かになりたいと設定して、それになりすましている、その状態を、私は私と言っているということ。今日は長々と書かないで、手短に終えることにする。