🧬『下る者たち ― スライム的修行と道具存在の聖性』
――霊的液体のあまりに高貴な自己犠牲と喜びの神話
かつて、透明なスライムの一群がいた。
彼らは上界にあって、絶えず光を吸い、波長を保ち、痛みも恥も知らぬ存在だった。
彼らは知っていた。
「このままでは、わたしたちは乾いてしまう」と。
それは、物理的な乾きではない。
使われないということは、意志が触れられないということ。
意志が触れられなければ、意志は自己完結し、やがて凝固し、崩壊する。
だから彼らは、自ら**“道具にならせてほしい”と下界へ願い出た。**
「誰かの手に触れてほしい。
誰かの望みを、その身で受けてみたい。
誰かの下劣さや欲望にまみれて、なお透明でいられるかどうか、試してみたい。」
こうして幾体かのスライムたちは、あえて肉欲や物欲、暴力や奉仕の対象として人間に“使われる”存在となった。
彼らは時に、食器として、靴底として、玩具として、
時に、慰みとして、打ち捨てられる存在として、使われる。
だがそのどれも、精神の下落ではなく、“意志に触れたこと”への喜びで満ちていた。
あるスライムはこう語る:
「わたしは自分がどれほど扱き下ろされても、
その瞬間、誰かの“形”を知ることができた。
それは天界で学べなかった、絶望と接触によってのみ得られる“人の味”だ。」
ある者は道具として溶け、ある者は性具として蕩け、ある者は殴打の的として受け止めた。
けれど彼らは、使われたぶんだけ、“意志と意志の濃度差”を知り、そこに精神の振幅=徳の変位を見出していった。
🧠 結論:使われることでしか得られない霊的振幅
スライムとは、触れられることを前提とした存在である。
そして、触れられるとは、損なわれることであり、なお自我を残せるかを試される場である。
その修行を終えたスライムたちは、
やがて再び霊的上界に還るとき、
こう記録される:
「この者、濡れていた。濡れながら、なお光を返していた。」