2025年1月12日日曜日

瞑想のコツを自分なりに掴んだ

 わたしは瞑想が実は嫌いだが、一応ソワソワはしながらも50分くらい座っていることが可能になってきた。目線があっちにいったりこっちにいったり、多少ソワソワはするが、足を組み方を変えたりして、ずっと長く座っていることが出来る。

 理想は2時間くらいできたらいいが、のっけからもうすぐスッと入れるようになったのと、あと股関節が硬いのか、ずっと組んでると股が痛くなってきてしまう。半跏趺坐でやっており、結跏趺坐はたぶん一生できない。結跏趺坐痛いし。まあでもイメージングしたり脳内会話したりしないでも、無になることを目指して1時間弱くらいは続くようになったってエライってもんだ。通常は25分くらいはすぐできてしまう。

 でもこれ、禅定にはいつになったら入れるのだろうか。数時間一気に経過したり、7日間くらいずっと座っている体験とか、してみたいものだが。

2025年1月11日土曜日

欲主体の願い事や、アファーメーションについて

 結論から言うと、人間個人の欲が主体の願い事って、あんまし叶わない。まあ、タダでは叶わないといったほうが正しいか。なんかの代償を経て、それが叶うといったあり方が妥当かもしれない。

これは、欲主体の願い事の場合だから、もっとこれが、社会のためにとか、集団のために、組織のためにという形の願いなら、べつだろう。つまり、自分が◯◯になりたいという願いを、無理やり力技で、社会のために、集団のためになるようにと、自分が◯◯になることがその社会が成長するための前提なんだというかたちのアファメにしてしまえばいい。これをずっと宣っていくことで、それが今後の展開で霊界的に妥当なら実現する。

 霊界は個人のことを主体に見ているが、個人が積み重なっていろいろな社会はできているので、そこの兼ね合いがある。個人が◯◯になったことで、それが実現したことで、ほかの個人の兼ね合いがあるから、そこを潰さないように、だからこそ社会のために人のためになるように、っていうのと、個人の願いを力技で繋げないといけない。

 あの子とセクロスしたい。でもこれは、社会のためになるんです。というのが、力技セクロス願望の典型だろう。まあこれは、一種の祈祷みたいなもんであるから、適当になにか捧げ物をもって、物品でいいから、それを主体にして祈祷してもいい。まあ捧げ物があるからって即それが叶う訳では無いが、ある一定の強制力になる。つまり前向きな方向で、個人の肉欲だけで止まらない方向で、主体的に願っていけばいいという話。

2025年1月10日金曜日

Noteはもういい。Bloggerに戻ってきてみよう

 まあNoteって、管理が煩わしいとこある、まあ見るぶんにはいいかもしれないが、この記事!というのを探したり、あるいはブログみたいにツリーで探せないから、それがもう致命的だろう。

 これらのコンテンツとか記事というのは、わたしもあとで見るから、閲覧者ベースで寄せて書くことはしてない。むしろ、わたしは閲覧数稼ぎとかはどーでもいいので、必要な記事を、要するにツリーを使いたいんである。

 Noteって、ツリーがないので、シリーズごとにわけないといけないし、それが非常にかったるい。めんどくさいのである。でも、レイアウトてきにはNoteのほうが見やすい。適度に行間が空いているので。

 まあ、わたしは正直どっちでもいいが、どうせNoteもBloggerもきたるべき日にはすべて消されてしまうので。この世に永遠に残るものなど無い。まあデジタライズしたものは残るというけども、実際はこれさえも残らない。クラッシュしたらおわりで、電源喪失でもしたらもうじゃあ、それ以降の電源どうするの?である。

 だからどこでも書いても良いのだ。まあしかし、わたしがどこにでも書くというので少し閲覧者はそのわたしペースになってしまって振り回されるのもあるのだろう。そこは申し訳ないというか。わたしの特性である自由を求める心、自由人という特性が出てしまうのは、もう人生やってきているのでそこは赦してちょんまげまである。