そのなかで、個人として生きて、俺がまずこう思うんだ、を提示できるやつが、ほんとうに偉い。社会はこう思うから、わたしもこう在ろうとする人間は、たとえばその承認欲求が、フォロワー何千人いるからわたしは幸福なはずなんだと、思いたい。俺はこう思うという、それがまず先頭にあれば、そのような承認欲求地獄からは外れられる。
ただこればっかりは、生まれた時にもうある程度個人のほうに目が向く人と、社会ありきでしか生活できない人といるから、それは仕方ない場合もある。ただ、社会ありきで生きていける人って言うと、これくらいの規模の影響力をわたしは持っているから、だからわたしは偉いんだと、思いたいようなところがあるんちゃうかと。それって判断の主体が自分を外れているから、
じゃあその、失脚してフォロワー全部消えてしまうと、それをまた追うように自分を偽ったりして、数ばっかりに生きる人生になる。自分がどうか?という方向性に舵を切れば、社会から相手されてなくても全然生きていけるのだ。社会をむしろ利用して生きる。社会主体の人は、社会様に養われてないと生きていけない。社会様から愛を大量に常に与えてもらわないと、自己確立が出来ないのである。