自分で自分のことを皇といってしまうのはよくないでしょうか。
皇大神と天照大神は、また違う役割なのです。
天皇だけについている霊ではないのです。
天皇には皇、一般人には大神と、使い分けるのが妥当でしょうか、
しかし、皇大神というのも、天皇だから、ついているわけではないのです。
神かかりというのは、よくあることですが、しかし、
わたしたちの言葉を、降ろせるかたが、あまり少ない。というのが現実です。
そこに、一切の自我を挟んではいけない。というのがあるかもしれません。
挟んでもいいのですが、やはりわたしが、喋っているふうにしないといけないので。
自我主導でもいいのですけど、わたしが、しゃべっているときは、
わたしの言葉を、直に降ろせるようでは、そうでなくてはいけません。
そして、祝詞いう話題ですか。
祝詞はですね。然るべきときに、唱えたらいいものですが、
しかし、道端でも、人が居ても、ある程度は、小声で唱えればいい。
と、ある特定な場面でしか宣っていけないわけではなく、
日常的に、誰でも、どなたでもいかようにも、となえてよいものでございます。
その霊質が、祝詞によって変わってくるという話でしょうか。
これは、そうとはいえないものの、やはり、霊体は、
修業によって進化する場合が大きく、祝詞だけを言っていても、
あまり、こう進化というよりは、穢れが、たんに落ちるだけです。
しかし、穢れが落ちるということは、つまりよい運命、
よい暮らしができる、しやすくなるといった場合になりますね。
穢れは、肉体的な運動や、シャワーでは落ちませんから、
そうした霊的なもの、行法などをとおして、やっていけるものでございます。
よい運命に囲まれていれば、いずれ死んだときにも、
それが作用して、よいところに、行きやすくなります。
その、わたしたちを信じて、なにを唱えてもよいですが、
祝詞、つまり言葉。言葉というものは清い言葉を使う。
馬鹿とか、死ねといってはいけません。それは貴方を呪うでしょう。
しかし、やはり、言っていい場合の、きつい言葉というのもあるでしょう。
それはまた別ですが、しかし、基本的には、愛のある言葉を使う。
そうしたほうが、よりもっと貴方の人生は、より深く輝くでしょう。
それは霊体が輝いている。ということというのが、いえるでしょう。