2024年7月18日木曜日

2024-07-18 イタコ 霊体と祝詞

わたしが書きますね。わたしは天照皇大神といいます。
自分で自分のことを皇といってしまうのはよくないでしょうか。
皇大神と天照大神は、また違う役割なのです。

天皇だけについている霊ではないのです。
天皇には皇、一般人には大神と、使い分けるのが妥当でしょうか、
しかし、皇大神というのも、天皇だから、ついているわけではないのです。

神かかりというのは、よくあることですが、しかし、
わたしたちの言葉を、降ろせるかたが、あまり少ない。というのが現実です。
そこに、一切の自我を挟んではいけない。というのがあるかもしれません。

挟んでもいいのですが、やはりわたしが、喋っているふうにしないといけないので。
自我主導でもいいのですけど、わたしが、しゃべっているときは、
わたしの言葉を、直に降ろせるようでは、そうでなくてはいけません。

そして、祝詞いう話題ですか。
祝詞はですね。然るべきときに、唱えたらいいものですが、
しかし、道端でも、人が居ても、ある程度は、小声で唱えればいい。
と、ある特定な場面でしか宣っていけないわけではなく、
日常的に、誰でも、どなたでもいかようにも、となえてよいものでございます。

その霊質が、祝詞によって変わってくるという話でしょうか。
これは、そうとはいえないものの、やはり、霊体は、
修業によって進化する場合が大きく、祝詞だけを言っていても、
あまり、こう進化というよりは、穢れが、たんに落ちるだけです。

しかし、穢れが落ちるということは、つまりよい運命、
よい暮らしができる、しやすくなるといった場合になりますね。
穢れは、肉体的な運動や、シャワーでは落ちませんから、
そうした霊的なもの、行法などをとおして、やっていけるものでございます。

よい運命に囲まれていれば、いずれ死んだときにも、
それが作用して、よいところに、行きやすくなります。
その、わたしたちを信じて、なにを唱えてもよいですが、

祝詞、つまり言葉。言葉というものは清い言葉を使う。
馬鹿とか、死ねといってはいけません。それは貴方を呪うでしょう。
しかし、やはり、言っていい場合の、きつい言葉というのもあるでしょう。

それはまた別ですが、しかし、基本的には、愛のある言葉を使う。
そうしたほうが、よりもっと貴方の人生は、より深く輝くでしょう。
それは霊体が輝いている。ということというのが、いえるでしょう。